能登半島地震のボランティア活動を通して感じたこと(2024/1/27-28)
2024年元旦、北陸地方を襲った能登半島地震からおよそ1ヶ月が経ちました。お亡くなりになった方々のご冥福をお祈りするとともに、被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。
今回は能登半島地震の被災地にボランティアへ行った社員のレポートをお届けします。
今回私は、1月27日・28日に能登半島地震の災害ボランティアへ行ってきましたので、お伝えできる範囲で現地の様子をレポートいたします。
・活動の経緯
現地で活動するNGO法人からの要請を受け、被災地へ向かいました。私は、東日本大震災をきっかけに防災に興味を持ち、学生時代からボランティア活動を続け、現在もスペクティで働きながら災害ボランティアや被災地の復興に向けた活動を行っています。
※注意※
石川県では、一般の方のボランティアの受け入れ体制が整っていない自治体もあります。下記サイトのほか、現地の状況を確認し、ボランティア活動を行ってください。
https://prefvc-ishikawa.jimdofree.com/
・実際に被災地を見て感じた印象
私が今回向かったのは、能登半島北部に位置する輪島市門前町です。
奥能登の自然豊かな土地で、江戸時代に北前船による海運業の発展とともに栄え、昔ながらの町並みが残る黒島地区は、国の伝統的建造物群保存地区に選定されています。平成19年に発生した能登半島地震でも大きな被害を受け、地区をあげて復興に取り組んできましたが、再び被害を受ける形となりました。
現地に入り、被災地を見て感じた印象は「想像以上に被害が大きい」ということでした。木造住宅は1階部分が潰れている家が多く、液状化で地面が隆起したり、建物は大きく傾いたりしています。自治体など公的な支援車両が入り、最低限通行できるように舗装されている様子でした。
また、海沿いを走っていると、地震による海底の隆起と陸地化した箇所が広い範囲で見受けられました。
・活動内容
27日(土)は、依頼された物資を近隣の避難所へ届けたあと、輪島市の公民館で住民の方々からの要望を聞きました。
まずは、倒壊した隣の母屋が寄りかかってきていた住宅の方からの依頼に応じ、通路および勝手口の確保を目指して、瓦礫の撤去作業を行いました。
28日(日)は、避難所での炊き出し作業を行いました。
避難所では毎日160人分の食事を3食分用意する必要があり、話を聞くと「どうしても大量に作りやすいカレーや豚汁が多くなってしまう」とのことでした。今回は、そういった声を反映して「お好み焼き」を振る舞うことに。皆様からも、”避難所でお好み焼きが食べられると思っていなかった”と、大変喜んでいただけました。
午後には、倒壊した家屋で依頼された品(テレビ台に飾っていた家族写真など)を探索しました。ご依頼のものは、2階部分が落下してきていたために残念ながら見つけることはできませんでしたが、2階の押入れにしまっていた、娘さんが生まれた時のアルバムや、成人式の写真、七五三用の着物などを回収することができました。
・感じたこと
被災しながらも避難所で積極的に動かれている方々は、復旧・復興の見通しが立っていない中でも、明るく振る舞われていることを感じました。それぞれ被災された方も、今できることを精一杯行っている印象です。そのような姿を目の当たりにし、自分もできることをやろうという思いが一層強くなりました。
また、倒壊した住宅にお住まいだった方に話を聞くと、阪神淡路大震災で被災経験のある親戚が、1度目の揺れが起きた瞬間に「裸足のまま外へ出ろ!」と号令をだし、全員が外に避難した途端、2度目の揺れで住宅が倒壊して命拾いをしたとのことでした。やはり過去の被災経験は、迅速な判断に繋がると感じたと同時に、日頃の備えの重要性も再認識しました。
私がボランティアをしていて常々思うのは、「復旧・復興していくときにあくまでも主役はそこにいる人たちだ」ということです。しかし、今回支援に入った地域は高齢者が多く、個々人の再建に向けた動きが進んでいない、圧倒的にマンパワーが足りていない、ということを強く感じました。
この地区は、ボランティアへ伺った時点では受け入れ態勢が整っておらず、いわゆる一般ボランティアが入れない状態でした。現在、専門の方々が急ピッチでインフラの復旧に取り組んでいる一方で、ある住民からは「待っていられない」という率直な思いも伺いました。
(追記:輪島市では、2024年2月7日から募集を行い、10日から受け入れを開始するとのこと)
私としては、一日でも早く落ち着いた日常を取り戻せるように、これからも長期的に支援を続けたいと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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