3人の社員が語る東日本大震災の経験と教訓。災害被害を減らすためスペクティにできること。
スペクティは、当時会社員だった代表の村上が東日本大震災でのボランティア活動をきっかけに創業した会社です。
東日本大震災の発生からまもなく12年。
スペクティでは、震災を振り返ることで、記憶や教訓を風化させることなく次世代に伝え、防災の重要性を再認識してもらい、災害被害の少ない未来を作りたいと考えています。
今回は、東日本大震災を機にスペクティにジョインした3人のメンバーに、当時の心境や教訓、今後の事業の可能性などを語り合ってもらいました。
"自衛官" "会社員" "学生"としてあの日何を学び、感じたのか―。
【話を聞いた人】
2011年3月11日どこで何を感じたのか
―まずは震災当時のことを振り返ってもらえますか?
"改めて自分が自衛官だと認識"
田中:
私は当時、航空自衛官の人事職として、青森県にある三沢基地で勤務していました。地震の際は、棚が揺れ、停電し、基地の中でボイラーのパイプがずれて水が吹き出すなど、本当にただただびっくりしたのが正直なところです。
このような非常事態の際は、指揮所と呼ばれる所に司令部機能が一同に集まるのですが、私はそこで、現場に行く人を選定するなど、人的戦力の管轄を行いました。三沢基地は当時7割ほどが東北出身の方だったので、皆さん自分の家の心配もしつつ、でも、非常事態だからこそ任務を全うしなくてはいけないという葛藤も見えました。直属の上司は、一緒に津波が来る映像を見ながら「実家が流されている」と言って勤務されていましたし、そうした姿を見て、 ここは己を捨てて仕事する場所なんだ、自分は自衛官なんだと改めて感じました。
"何もできなかった無力感が原点に"
鰐部:
私は、当時中学一年生で、実家がある名古屋にいました。地震直後の正直な思いは「多分大丈夫だろう」だとか、「知らず知らずのうちにすぐに収まるだろうな」という程度でしか捉えていなかったです。 でも、夕方に津波の映像を見て、ようやくものすごい災害だということに気づかされました。
連日報道される被災地の状況を見ながら、"私も現地で何か力になりたい"そんなことを思いながらも、その時は、ただテレビの画面を見ていることしかできませんでした。
約半年後に生徒会の被災地支援活動の一環で、宮城県石巻市を訪れたのですが、そこで見た光景が、まるで紛争地域で見る空爆された市街地のようで、日本にいるとは思えず、大きな衝撃を受けました。被災地を眺めながら、半年前と同様、ただ見つめることしかできない自分への無力感でいっぱいになりました。
ですが、その思いが原動力となり、その後もボランティア活動を続け、今スペクティで働いているところにつながります。ある意味人生の転機というか、原点でしたね。
"福島の工場で被災。一瞬で街の景色が変わった"
根来:
私は福島県郡山市にあるソニーの電池工場に赴任をしていました。 あの日は金曜日で、当時単身赴任だった私は、仕事が終わり次第東京に帰り、久しぶりに幼い娘に会うのを楽しみにしていました。そんな中での地震でした。
工場の色々なところが壊れて、女性職員がみんな悲鳴を上げて、この世の終わりかと思ったくらいです。
揺れが落ち着いたタイミングで、工場敷地内の広場に集まったのですが、3月にしては珍しく雪が降ってきて、工場の壁からは工作機械のようなものが飛び出てきていました。(下記写真左上)
その日はひとまず家に帰ろうとしましたが、自宅マンションは亀裂が入り、立入禁止に。新幹線ももちろん動いておらず、駅前のコンビニには長蛇の列ができていました。
携帯もつながらない状態だったので、家族には公衆電話で「大丈夫だ。 生き抜くから。」と伝え、その日は開放されていた近くのホテルで一夜を明かしました。本当に至れり尽くせりで、大変な状況にも関わらず布団や食事も用意してくれて助かりましたね。
しかし、翌朝にはそのホテルの建物も危ないと言われ、避難所に行くことになりました。一日遅れて入ったので、布団も余っておらず、ダンボールを揉みしだいて柔らかくして寝ていました。そうした状況でテレビ見ているときに原発が爆発し、避難所のみんなで「今後どうなるのだろう」と不安になったのを覚えています。郡山の街は、酒屋の天井が抜けていたり、神社の石像や自販機が倒れていたり、これまで見ていた景色とは一変していました。
その後、3日くらいして、友人の車で東京に一時帰宅することができましたが、「現地の人は逃げ場もない中で復旧作業を行っているのに、これでいいのか」と、数日経ってからまた自分の車で郡山に戻りました。
突き動かされた思いから今日まで
―東日本大震災を経験して感じたことや、取り組んだことはありますか?
"熊本地震で活かされた被災経験"
田中:
私は地元が熊本で、たまたま熊本地震の際に余震のあと帰省して本震を経験しました。その時、経験する事って大事だなと感じたんですよね。東日本の時は14時46分で、まだ動きやすい時間帯だったんですけど、熊本の時は夜中だったので、周りはすごく焦っていました。そんな中で、私は家族を起こして、「とりあえず市役所に行くよ」と声をかけ、安全な場所まで避難しました。経験しているからこそ、すぐに冷静に動けたんだと思っています。でも、夜は、道が見えづらかったり、被害状況が分かりづらかったりしたので、時間別の避難訓練の必要性も感じました。今後こういったことも発信できたらいいなと思います。
"東北スタディツアーを企画 後世に震災の記憶を伝える"
鰐部:
大学では国内外でボランティア活動をするサークルに入り、東北の被災地支援プロジェクトを新しく立ち上げました。半年に一回、岩手・宮城・福島の沿岸地域を3泊4日くらいで、震災遺構を見に行ったり、語り部ガイドさんのお話を聞いたりして学ぶものです。
当初の目的は、まず自分たちの目でしっかり学び直すという趣旨でしたが、活動を重ねるごとに、語り部さんの「今後の災害に対しての防災意識を高めてほしい、自分ごととして捉えて欲しい」という思いを汲んで、"発信する"ということを意識して活動するようになっていき、京都や大阪の小中学校、高校で震災の記憶を伝える活動なども行いました。
震災の記憶がない若い世代に災害の記憶を伝え、いかに自分ごととして捉えてもらうかという活動は、現在の営業の仕事にもつながっているのかなと思います。
"状況把握が全ての出発点に"
根来:
地震直後、広場で集まった時に、家族の安否が分からず、津波被災地の状態も分かりようがなく、しばらく経ってから亡くなっていたことが分かったという人たちを目の当たりにしました。自分もすぐには家族と連絡が取れなかったし、やっぱりまず情報を得ないことには、何を言ってもただ不安に打ち震えるだけしかないという無力感を覚えましたね。
その時、まず現地の状況がどうなっているのか把握するというのは全ての出発点になると強く感じました。スペクティのサービスもここにつながっています。
スペクティとしての可能性
―今後スペクティの社員として取り組んでいきたいことを教えてください
"防災や災害に熱い思いを持った仲間を増やす"
田中:
当時自衛隊に勤務している中で、福島原発に三沢基地から消防車を派遣するという仕事があり、その際、大きい消防車が道がうねって走れないという情報を、現地を走ってるドライバーからの無線で初めて知ったということがありました。その時、情報を正確に早くキャッチするってどれだけ大事か痛感しました。
また、私は人事として「これまでに、防災・危機管理の面で、印象に残っていることはありますか?」と最終面接で聞くようにしています。やはり実体験を伴ってお話する人は、お客様の立場に立ち、寄り添った仕事ができると思っています。そういった仲間を今後も集めて、より良い会社にしていきたいです。
"災害を自分ごととして捉え、サービスを広げていく"
鰐部:
やはり営業としては、一つでも多くの自治体や企業で利用いただいて、いざという時に対応できる環境をさらに整えていきたいというのが一番です。最近はトルコでも大きな地震がありましたが、災害を自分ごととして捉えてもらうことが災害被害を減らすことに繋がると思っています。
個人的には、社員研修のような形で、東北の震災遺構を見たり、語り部さんの話を聞いてもらったりする取り組みもしていきたいですね。
レポート「災害伝承の重要性」(著・鰐部)
https://spectee.co.jp/report/dont_forget_disaster_folklore/
"災害大国日本が世界の防災をリードする"
根来:
会社としてやることは明確で、世界中の危機を可視化し、一人でも多くの人を助けることだと思っています。今後は未来の可視化にも注力していきたいです。この先どうなるかが分かれば、災害による被害を未然に防ぐことができる。それが一番価値があるし、テクノロジーの面でチャレンジするべきことだと思います。
また、海外事業にも力をいれていきたいです。災害大国の日本が防災技術で世界をリードするという状況を作るのは国としても大事だし、私たちとしても必ずやっていきたい。災害を全部防ぎきることはできません。でも、最新のテクノロジーを使えば被害を最小限に抑えることができます。我々はこれからもっとサービスを進化させて、世界の防災を変えていきたいです。
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